書評

『選択の科学』レビュー

シーナ・アイエンガー『選択の科学』

選択の科学選択は最悪を最高にできる

今回はコロンビア大学ビジネススクール特別講座を書籍化したシーナ・アイエンガー『選択の科学』文藝春秋を取り上げました。9年前のベストセラーですが、今年の初めにダイヤモンドオンラインに掲載された「東大で史上一番売れた本」のランキングでも16位とまだまだ人気の衰えない本です。 

イヤイヤ期の子どもたちは何をしているのか 

最近ツイッターを読んでいて、イヤイヤ期の子どもさんを育てている親御さんのご苦労が書かれているのを興味深く読みました。 

前回『問題解決の授業』で定義したように、問題とは理想と現実の差にあるということでしたから、親御さんから見た理想とお子さんが繰り広げる現実には差があり、ともすれば問題と見えてしまうところもありそうですが、この親御さんはお子さんの視点に立ってお子さんにとっての問題が何かを一生懸命に考えておられました。お子さんのフラストレーションはどんな理想と現実の差から起きているのか?と。 

発達心理学によれば、この時期の子どもたちはイヤイヤをしながら自我の芽生えを体験し、自己主張をしながら自己を形成しているのだということです。 

育児書にイヤイヤ期の子どもたちには選択肢を与えると良いという指南を見かけました。 

例えば、「ご飯食べる?」「イヤ!」「じゃあ今は食べるのはやめようか」「イヤ!食べる!」といった具合なのだそうです。 

選択肢があって、その中から自分で選ぶことができるということが自己形成である、というのは頷けます。なぜなら同じ出来事に対してどう受け取り、どうそこからアクションするかにその人らしさが現れるということは、私たちが日常的に経験していることだからです。外の世界に興味を持つという自我の芽生えがあり、生理的欲求ではなく興味を満たすことを主張する。 

それは著者がこの本を通して書いていることでもあります。つまり彼女は選択は人間の本能であると。まさにイヤイヤ期の子どもたちの逼迫したようなイヤイヤを見ていると、人間は本能的に自分で選びたいと主張してゆくのだなと感じます。 

一方で、イヤイヤ期の親御さんの苦悩は子どものイヤイヤが予測もコントロールもできないことだけではなく、イヤイヤしている子どもたちがその選択の全部の責任を取れる判断ができないということにもあると思います。 

つまり、怪我に繋がってしまわないか、事故を起こしてしまわないか、一生心に残る傷になってしまわないか?ということは親がある程度判断しなければならず、その上にそれをこの年齢の子どもたちに納得させるのが難しいということでもあると思うのです。 

自由とは選択して責任を取ること 

この本は著者であるアイエンガーさんの講義を書籍化したもので、厳格なシーク教徒のインド系アメリカ人で盲目の彼女が今の自分となるまでに目の前に現れた選択肢をどのように選択してきたのかということを序盤に語ります。彼女は実にたくさんの試練に見舞われますが、その度に「選択」して自立や自由や自分らしさを獲得していきます。 

アメリカでインド系移民であること、信心深い宗教の教徒の家の娘であること、その家の父親が早くに家族を残して亡くなってしまったことなど、どれをとっても彼女の選択の条件はそれほど恵まれていたわけではないはずです。 

古い慣習など今では差別に見えるものの中には、時代背景として社会的に女性や障害者や子どもや信徒や老人を守るために始まったものもあり、盲目的に守られていたのは考えなくても従っていれば守られた時代があったからとも考えられます。 

時代や事実にそぐわない慣習を子どもを守ろうとして親が子どもに盲目的に押し付け、親子の間に衝突が起きることはどの時代どの国どの家庭でもあることでしょう。 

彼女は「だから私はダメだ」と思うか「でも私はできる」と思うかの選択肢があることを、そして、条件が良くない中で「それでも私はできるしやる」と選択したその責任も引き受け、自由と彼女らしさを獲得してきました。 

この本ではこの後選択の条件、人間の認識の癖や傾向についての心理学的な実験などの事例を交えた考察が続きます。この辺りは本を読んでいただくとして、次回書評の後半では読書中と読後に感じた「選択の先にあるもの」についてまとめてみたいと思います。 

条件から選択して結果を新たな条件に 

前半でも触れてきましたが、選択には責任が伴います。彼女の本の終盤では「選択の代償」として書かれていますが、条件の中から選択することは、それで終わりではありません。必ず結果が出て、それが次の選択の条件となります。それが選択の代償であり責任です。選択を後悔することも当然あることでしょう。 

選択は結果をある程度予測した上でします。そういう意味では結果はある程度自分でコントロールできる部分もあります。が、なかなかそういうわけにいかないのが人生です。それは結果が彼女がいうところの「偶然と運命」が選択と絡んで方程式のようになっているからでしょう。 

しかし、選択は決して思い通りにするためだけにするものではないと思うのです。どういうことかというと、例えば、自分がした選択の結果が思ったようなものではなく、次の手として何も選べないような状況に対して、どういう態度で向き合うかを選ぶ、という選択もあるということです。 

思うような結果が出ても出なくても、その責任を負ってそれを新たな選択の条件として引き受けて、何かしらを選び続けるのが、自己を形成するというプロセスそのものでもあるのかもしれません。 

自分が選んだことの結果に怒ったり、拗ねたり、諦めたり、別のことを考えたり、助けを求めたり……。そういう態度にこそ、私たちは「その人らしさ」を見ると思いませんか? 

主観とモノサシ 

彼女の本を読みながら何度も思い出したのは、『夜と霧』や『それでも人生にイエスという』という本の著者であり心理学者であったヴィクトール・フランクルでした。 

フランクルは第二次世界大戦中にナチスドイツによって、ユダヤ人であるという理由により捕らえられ、アウシュビッツの強制収容所で6ヶ月間を過ごしました。彼は収容所の中で、人間は絶望の中でもその人が思う「生きる意味」(自己価値)を見出すことができ、それに従って選択することによって人間性や希望を失わずにいることができるという自説を裏付ける出来事を目の当たりにしました。 

私は心理学の各種理論は異口同音に、自己という概念は価値観を通して作られるというようなことを言っており、そして、自分に起きた出来事をその価値観に叶うよう理解し選択し振る舞うことで自分の価値(アイデンティティ)を確認するのだと理解しています。 

価値観とは、別の言い方をすると「私はこう思う」という「主観」と「だからいい悪い」という「モノサシ」になるでしょうか。 

さて、ここでおなじみのビジネスに絡めたオチへとつなげます(笑) 

例えば、自社の商品かサービスにクレームがあったとしましょう。 

それを失敗だと捉えて潰してしまうか、言いがかりだと受け取って反撃に出るか、改善のいい手がかりをもらったと喜んでお礼をするか、私たちは選べるということなのです。 

そして、さらにその選択の結果がもたらす次なる選択の条件(クレームを申し立てたお客様の反応)ももちろん大きく変わる図が見えたでしょうか。 

どんな人も、人生に起きることを完全にコントロールすることはできません。しかし、どんなに最悪に思える結果でも、受け取り方を選ぶだけでいとも簡単に人間性にあふれ、希望あるものに変えることができるのが人間ではないでしょうか。行き詰まった時はいつもと違う視点で出来事を見ることで道は拓けるのかもしれません。 


この書評は、元の掲載先から許可を得てこちらで再掲載しています。

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